Then & Now生デの今昔

【追悼】泉修二先生・網戸通夫先生

四人の卒業生に、お二人の先生への追悼文を依頼しました。頂いた原稿を読むだけで涙が出てきます。そして感謝の気持ちでいっぱいになりました。もし皆さんも先生たちとの思い出が溢れてきましたら、その思いを『生デの会』まで、お寄せいただければ幸甚です。

中尾早苗(生デ卒業1977年度)

泉先生、網戸先生には、在学、在職中に大変お世話になり、感謝しております。謹んでご冥福をお祈り致します。お二人にお会いしたのは〈生デの会〉設立総会が最後となり、お元気そうな笑顔が目に浮かびます。

生デでは、「現場で、観察して、感じること」の大切さを学びました。私自身、お二人の素敵なスケッチが描かれた年賀状を頂く度、初心に帰る気持ちになりました。

私は、泉先生には、インテリアの授業でご指導を受けました。実務の仕事もなさっていたので、事務所に何回か伺ったことがあります。その頃は進路に迷っていた時期でもあり、社会での仕事の楽しさ、厳しさを知る機会となりました。また、泉先生はニューヨークで研修されて帰国後、その貴重な体験やゲイ文化のお話を楽しく語って下さったことも印象深く思い出されます。

卒業生のそれぞれの歩みを、泉先生、網戸先生は、天国から温かく見守り下さっていることでしょう。ご厚情有難うございました。

渡辺光恵/合同会社mix代表・デザイナー(生デ卒業1990年度)

私は助手4年目、酒井先生が短大維持のため奔走されていましたが、生デが終焉に向かうことは既に周知され、助手5年目を担う選択もあった時です。「あなたは、サッサとここから出てゆきなさい!」と、きっぱり言葉にされた泉先生。その言葉の後ろで、高見先生、網戸先生、酒井先生がニコニコ…。「あなたは、今、自分のことだけを考えなさい」という、4人の先生方の温かい眼差しに、私はハッと我に返りました。これは、「私は今からデザイナーになるのだ」と、何の自信も根拠もないままに、心を決めた瞬間です。

先生方は、とても仲良しでした。そして、私が武蔵美で過ごした8年間は、先生方にとっては「青春の終焉」だったのだと思います。私には、先生方と協働したという意識は全くなく、ただただ、先生と学生の延長線でした。生デ研に初めて足を踏み入れたのは1989年4月。網戸先生は53歳。今の私と同じ歳…驚愕です。網戸先生は、生デ終焉後、基礎デに移られますが早期自主退職されます。あのお優しい目をさらに「ほそーく」されたハニカミ笑顔の裏側を想像すると、胸がギュッとする思いです。

恩返しとは何か?を考えます。私には、ただ、今こうしてデザインを生業にし続けることしかありません。その生業を支えているのは、あの時の先生方の言葉です。

生デは、2年時にプロダクト、編集、住宅から授業を選択します。田舎から出てきた18-19歳には「好き/嫌い」でしか選択理由が見つけられない時、「デザインは同じですよ」と網戸先生はお話しくださいました。グラフィックは苦手といってもデザインを考えるのは実は同じことですと。今なら、わかるんですけれど…その時はトンチ問答されているようで…。つまり、その時の私は、無心に手を動かして造形することは好きだけれども、広告や商品開発のようなデザイン思考がわかっていなかった。こんな子供には、何を説明しても伝わらないんです(笑)。それを、「デザインは同じですよ」とだけ答えてくださった網戸先生。豊口克平先生に「秀才」と言わしめた網戸先生です。(向井周太郎先生伝※)

あの時のトンチ問答の行き着く先に、グラフィクデザイナーと並んで、建築家と協働し、家具やサイネージや空間デザインの中で生活している私がいます。先生方の「青春の終焉」から、バトンを受け取れたでしょうか? 仲良しの先生方、ありがとうございました。

※網戸通夫著『デザインの原郷 1944-2004』の前書き「デザイン−生活世界の原郷と形成」向井周太郎より
(書名をクリック/タップしてください。)

岡本直枝/テキスタイル造形作家(生デ卒業1977年度)

田村さんから訃報を頂き、え?!と、パソコンを見れば、網戸先生からのメールは3週間ほど前でした。なんでも、従姉妹さんに「デザインとはなんでしょう?」と聞かれたとか。その返答は「『生デ』の理念は、『生活そのものがデザイン』と言うものです。」から始まり、リサーチで使うヤカンの小話でクスリと笑わせ、「『用と美』という言葉は永遠の問題ですね。」で結ばれています。最後に、「80半ばのじいさんばあさんの、年甲斐も無い珍問答でした(笑)。それではいずれ又。」と。先生のメールにはいつもクスリと笑わせる小話と先生の愛する方々のお名前がありましたね。

そう網戸先生は名前を覚える天才! 入学式の翌日には皆んなの名前を言ってのけ、そのびっくり顔をいたずらっ子の様に見てましたよね。そんなほのぼのさん的空気を放ちながら、実はムチャせっかち。気がつけばもういない。

それから相談事には必ず「大丈夫ですよー。」とご返答。えー、センセー、私の話し聞いてます?と突っ込みたくなる。けど、後で「ご参考に。」と資料が送られて来たり。送られて来るだけなんですけどね。

先生は目線がね、水平って言うか。先生らしくない。でも時々横に現れてただ背中を押して下さる。それが先生のやり方、とても深い愛情だと感じておりました。

最後に『生活そのものがデザイン』と教えて下さった網戸先生。今私はアートに身を置き、デザイン、工芸、アートなど全て生きている事の表現だと、それは生デ出身者だからこその目線と思っております、などと返信してしまいましたが。良かったのでしょうか、先生。

きっと、「大丈夫ですよー。」とニコニコ笑ってらっしゃいますね。

本当に、ずっとずっと、ありがとうございました。

西本和美/編集ライター(生デ卒業1978年度)

泉先生の最後の仕事に伴走しました。

始まりは〈生デの会〉設立総会(2018年10月)。「いま作ってる本があるんだが、編集者としてアドバイスをくれないか」と、声をかけられたのです。90歳を越えてなお執筆活動されていることに、内心驚きました。

具体的なお手伝いが始まったのは、それから三年ほど後。A4×100枚に及ぶ原稿は、図版や写真を配してレイアウトされており、そのまま出版できそうなほどでした。タイトルは『大泉博一郎 年譜・著作目録(※)』。亡くなった先輩(中村圭介氏)から頼まれた本で、費用は出ないから自費出版する、と言うのです。

損な役回りを引き受ける泉先生の心意気にはほだされます。また学生の頃から助手時代、社会人になってからも度々、助けていただいた恩のある身。これは恩返しのチャンスだと、喜んで手伝うことにしたのです。

がしかし、その後の作業は難航しました。引用文は原典に戻って校正しますが、戦前戦後の情報は齟齬が多く、どれを信用すべきか悩ましい。またデータはCADソフトで制作されており、印刷用に全頁を作り変える必要がありました。

泉先生は推敲を重ねながら、「ちょっと知多半島のお寺に行って、仏画のサイズを測ってきてくれないか」「海事図書館で戦艦の沈没年月日を確認してくれないか」などと多々リクエストも出されます。

そうするうちに、泉先生は入退院を繰り返すようになりました。そのたびに体力は奪われ、出来ないことが増えてゆくなかで、懸命に頑張っておられました。

最後の打ち合わせとなった日は、「これで、僕の仕事は終わりだね?」と、書斎から出て階段に立ち、笑顔で見送って下さいました。相談したい問題はまだまだ山積していたのですが……。

ご自宅での打ち合わせでは、自ら珈琲を淹れくださり、ご自慢のコレクションを広げたり、思い出話や噂話に花を咲かせたり。楽しく、時には叱られ、学びの多い日々でもありました。

お疲れ様です。ありがとうございました。

※大泉博一郎は、JID(公益社団法人 日本インテリアデザイナー協会)初代理事長を務めた人物で、戦後初のフリーデザイナー。泉先生は、彼の人生を、交友のあった師や友人らとのやり取りの内に浮き彫りにする手法を試みています。そのため単なる年譜ではなく、日本のインテリアデザイン黎明期の物語として、読み応えのある本となっています。
なお来年度、JIDが協会資料として発行の予定です。

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