Then & Now生デの今昔

宇賀洋子先生「生デのおもいで」

生デ創設の翌年からプロダクトデザイン概論とプロダクト分析の授業をご担当された宇賀洋子先生から、卒業生に宛てた「生デのおもいで」が届きました。

宇賀先生のお手元には、当時を記録した手帳や資料がたくさん残っています。今回の企画のためのやり取りは、55年前の記憶を手繰り寄せるというより、まるで講義を受けている様な幸せな時間でした。

未来に不安ばかりを感じてしまう今、過去のおもいで達から力をもらうことは、明日を生きる術になります。そして、この状況下を抜け出た時には、宇賀先生を囲みお話しの続きを伺いたいと強く思いました。

◉中央、赤いドレスの宇賀洋子先生。目黒迎賓館にて謝恩会の様子。

『生デの会』のみなさま、こんにちは!!  宇賀洋子です。

1965年9月から非常勤講師として1期2年生にお会いしたのが最初です。翌 ’66年4月から専任講師になり1期専攻生・2期2年生・3期1年生の講座も担当したと思います。研修旅行や工場見学 (積水化学工業のプラスティック生産現場)など、興味深く見入る学生の姿が今でも思い出されます。

そんな楽しい思い出が学内から消えて、ほぼ全国的に学園紛争が起こったのが’60年代の終わり頃、武蔵美でも教授会は朝まで、学生との対話集会も朝までと言う状態の中で、生デの主任教授阿部公正先生(※1)以下専任の先生方も、次々辞表を提出しました。私も辞任することを選択しました。とは言え、紛争が終息し学生が戻った時、専任教員が一人もいないのでは学生さんに申し訳がたたないと思い、非常勤で残ることにして新体制造りをお願いしました (’70年度末・’71年3月最終)。その時の生デの学生たち(5期専攻生・6期2年生・7期1年生だと思う)にお別れのご挨拶をした記憶がないのが気懸かりです。他学科の先生方には3月20日に吉祥寺でご挨拶を、豊口克平先生(※2)には3月28日にお宅にお詫びに伺っています。

最後に、もう一つ生デで一番楽しい思い出は、専攻生との合同研究です。人数も少なくみんなで協力し合って成果を得ることができます。その一つをご紹介したいです。「デザインの寿命」と題する研究は『工芸ニュース1971 vol. 39-2号(’71年8月30日発行)』(※3)に掲載されています。実際に携わった方々に報告が届いていない可能性あり、申し訳なく思っています。ご免なさい。『生デの会』のみなさまにも是非見て頂きたいモノです。

『工芸ニュース1971vol.39.2号』( PDF)

掲載した『工芸ニュース』に関するお問い合わせは、「Contact」ページのフォームからお願いいたします。

  • ※1:阿部公正先生(1921〜2004)デザイン・建築評論家。武蔵野美術大学生活デザイン学科の初代主任教授。いうまでもなく大変立派な先生でした。書ききれないほどの思い出はいずれまたの機会にお話したいと思います。 
  • ※2:豊口克平先生(1905〜1991)インダストリアルデザイナー。武蔵野美術大学工芸工業デザイン科教授。豊口先生には、宇賀学生時代に産業工芸試験所機能実験室長で実習単位を戴いたご縁があり、武蔵美生デを推薦いただきました。
  • ※3:『工芸ニュース総集編5 軽工業デザイン』『工芸ニュース』総集編全10冊中の一つ(’77年11月発行)にも収録されています。表紙デザインは草深広司先生によるものです。 

【略歴】

  • 宇賀洋子[うが・ようこ]インダストリアルデザイナー 
  • ◉1932年3月/東京生まれ
  • ◉1955年/千葉大学工学部工業意匠学科卒業。理研光学工業(現リコー)企画室入社、のち設計部へ
  • ◉1957年/松下電器産業(現パナソニック)中央研究所意匠部入社
  • ◉1963年9月~’64年末/JETRO ’63年度海外デザイン研究生として、英国 Hornsey College of Arts & CraftsのPost graduate studentとして在籍
  • ◉1963年9月〜/日本インダストリアルデザイナー協会会員、理事、副理事長、名誉会員、現永年会員
  • ◉1965年/工業デザイナー宇賀洋子研究室設立 
  • ◉1965年9月〜’71年3月/武蔵野美術大学短期大学部生活デザイン学科非常勤、助教授等
  • ◉1971年4月〜’97年3月/千葉大学工業短期大学部のち工学部工業意匠学科非常勤講師等
  • ◉1992年/有限会社宇賀デザイン研究所に改組
  • ◉2005年/研究所解散
  • 日本デザイン学会会員、理事など、現名誉会員

PLAT(NPO法人建築思考プラットホーム)にて宇賀先生のインタビューが掲載されています。