Kando Special卒業後の学び:本編/観堂達樹

いつのまにか「高齢者」区分となった私がこれまでの人生を振り返ると、思いのほか生デの存在が色濃く浮かび上がってくることに改めて驚きます。かつて学生生活を送ったその場所へ、のちに講師としても生デ終焉の時まで関われました。今では「生涯プロクリエイター」を自らに掲げて仕事している私が、生デの「卒業後の学び」について纏めることは、自分自身にとって思いのほか重要な再認識でもあるようなので、ちょっと長くなりますが記録しておきます。

生デ前

まず、生デに入る前のことから記しておきます。

ちょっと科学的指向を持つ理数系高校生は、一方では大江健三郎とか光瀬龍、ニーチェなどに傾倒したりしていました。そして断片的な想いをまとめた冊子をガリ版刷りで作って学友たちに販売もしました。内容は、若い感性の言語化アプローチで、「肌で輝く光の粒に生の虚無を見出せり/かくの如くあるべくだ」といった抽象的イメージが過半でした。

この時期には、自分自身の思わぬ一面を知る出来事もありました。

3年生になってまもなく教職員の全日ストがあり、「先生方は休みで当日授業は無いが、学生は登校して自習するように」との事前案内。それを受けた瞬間に私は強い反発を覚えたのでした。先生不在で授業の無い学校へなぜ登校しなければならないのか、学生も自宅での自習でいいだろうと。そして、当時生徒議長をやらされていた私は、その立場を利用すれば思いを叶えられると気付いて、問題意識が無かった生徒会長を誘導して 1000人超規模の緊急生徒集会を開いたのでした。全校生の前の壇上で校長や幹部教員の主張を聞いたうえで私が反論し、それから全校生徒の賛否を確認すると思いどおり私への賛同が満場一致で学生の自宅自習が可決されました。そのあと、学校側にこの結果を覆されることがないようにと地元のマスコミにも情報提供したのです。まだ 17歳でしたが、自分で正しいと思えたら起立する自分がいて、大勢の前でも先生たちを相手にしても躊躇することなく堂々と主張できるんだなぁと、少し驚きつつも自覚できた体験でした。

当時の自分に美術は縁遠いとの自覚はあったのに、ムサビ志望の友人に誘われて2人で「幻想絵画同好会」を作り、好き勝手に数点描いた絵が予想以上の出来映えで驚きながら、展覧会を開いて発表の喜びも体験したのでした。創作活動の愉しさに目覚めた私はそれから粘土でトルソを作って褒められもして、理数科の高3生なのに自分は芸術家にでもなりたいのかなとぼんやり思ったりしました。

しかしまもなく私は、やや特殊な人生の分岐点を迎えます。家庭内や身辺に不都合や不満があったわけではないのですが、高 3生後半に家を出て関西方面で 2年間ほど暮らしたのでした。自給自足のアルバイト生活ではアトリエに通いデッサンの練習もしましたが、より大きな経験は、さる大学の現代詩研究会のスタッフと巡り合って、独自な言語世界に強く影響を受けたことでした。この放浪の 10代後半に、世界観と共に言語表現力も成長していきました。

生デへ

ムサビ志望の同級生がストレートに合格していった一方で、出奔 1年目の私はさすがに大学受験の余裕など無く、翌年もまったく準備せずムサビ受験し当然不合格でした。そこで受験アプローチを再考し、次の年には試験項目に小論文がある生デを受験しました。小論文で自分の言語表現力が発揮できたなら合格できる可能性はあると思ったのです。

小論文試験時に配られた出題用紙を目にした瞬間に衝撃が走りました。「容器について記せ。」この端的な出題はまさに私への招待だと感じたことを覚えています。デザインの学科だから、なにか容器のデザイン観を言語化する出題だけれども、テーマを「容器」としたのはまさに私を迎え入れるためだなと、記入はじめる前から感激していました。

小論文の表題を「頭蓋という容器とコップのと非接近性について」として、内容の断片で覚えているのは、「せいぜい無限を空想するほどの容積しか持たない私たちの頭蓋」とか「鳥は鳥の中で飛んでいる」とか思いつくままのイメージを論文化して、800字用紙の最後のひとマスを句点で結んだのでした。結果、この小論文試験によって私は生デに合格できたのです。入学まもなく何人かの先生から「きみが観堂君かね」とお声を掛けていただきましたが、先生方にも私の小論文はだいぶ印象的だったのでしょう。

3年前すでに入学していた高校の同級生はやがてムサビの大学院へ進んだので、卒業まで一緒の学生時代を過ごすことができて、校内や互いの下宿でもよく会ったりしていました。

◉鷹の台ホールにて

生デで

入学当時の私は芸術や哲学に傾倒していて、気軽い語感の「生活」や「デザイン」に興味はありませんでした。とりあえず高校時代から目標にしていたムサビになんとか入れて良かったなと感じていた程度でした。

しかしまもなく「生活・デザイン」の意味に深く目覚めながら、やがて「人生のテーマ」ではとさえ感じ始めます。そんな根本的な目覚めに導いてくれたのは、生デの先生方と生デ研究室の存在でした。

7号館4階にあった明るくて広くはない研究室には中型のテーブルとぐるり囲める数脚の椅子が置かれて、近寄りがたいキャリアの先生方が気安く話しかけてくださったり、テーブルを囲んで学生同士や先生も交えての思いつくままの気軽な雑談の空気感が日常でした。研究室での会話は時に深淵が覗けたりしつつ自在に広がり、自己中心的だった私にさえ居心地の良い居場所となり、生デへの愛着が深まっていくのに時間はかかりませんでした。

新入生にとって生デ研究室の空気感をまず印象づけてくれたのは、半澤節男助手の存在でもありました。モデルか俳優かと思わせるような外見に加えて、いつもスマートで端的な学生対応とか優しく丁寧な物言いや立ち居振る舞いは、研究室をひときわスペシャルな雰囲気にしていました。新入生当時は「ああ、ムサビって研究室からがこんなにも高品位なのか」と印象的でしたが、たぶん生デ研究室ならではだったのでしょう。

(いま振り返っても、明るく自由で品位ある雰囲気の研究室こそ生デの象徴だったなと感じます。実績ある先生方のフランクで親和的な在り方が作り出す心地よい「関係生成力」は、やがて私がクリエイターとなりさらに講師として学生を指導するようになる間もずっと、人としてどう在るべきかの手本になっていたように感じます)

◉学園祭ファッションショーにモデル参加

生活・デザイン

振り返ってみると、私の生デ学生時代は「生活」と「デザイン」の再定義から始まったとも言えます。授業で知ったヴィクター・パパネックの『生き延びるためのデザイン』という言葉は象徴的で、当時の彷徨う意識を導いてくれるようにも感じました。私も「デザイン」を「より良く生き延びるため」の視野でも捉え直し始め、授業や研究室での時間を通して「生活・デザイン」を踏み込んで考えるようになっていきました。そうしてやがて専攻科の頃には「すべてはデザイン」との気づきにも接近しつつ、「生活」を「1度限りの人生をどう生き延びるか」の観点でも捉え、連なる「デザイン」も「その人生にどのように関与できるか」のスタンスで考えようとしていました。

余談ですが、研究室で私が「1度きりの人生をどう生き延びるかの観点で…」と話し始めたときに横に座られていた酒井道夫先生から「1度きり、とはなんだね?」と尋ねられたことを覚えています。そうか、かけがえのなさを表現するのにフツーに使ったけれども、生まれて・生きて・死んでいく途上の人生に、たとえ1度きりであっても回数をつけるのはおかしいか、との気づきもありました。

また「すべてはデザイン」の観点についても、別の日の研究室談話中に私は心理学者河合隼雄のエピソードを紹介したことがあります。『「すべては自我である」と主張する学生の河合に対して、テーブルを挟んで座る教授が「ではキミはこの机も自我だというのかね」と問うと、河合は「先生、あなたが座っていらっしゃるその椅子も自我ですよ」と応えたそうだよ』との小話をしましたが、唐突だったせいか仲間ウケはよくありませんでした。そんな包括的で倒立した観点も模倣しつつ「デザイン」を考え直していくなかで、私の「生活デザイン」はいくつもの気づきとともに徐々に光りはじめていました。

「デザイン」への気づきの一方で、哲学や芸術に惹かれた若い私の考えを受け止めて対応いただけた先生方との会話環境もまさに「有り難い」もので、さすがはムサビだなと感じていました。ことに、美術評論家として多くの評論を世に出され NHKの日曜美術館にも出演されていた、芸術と言葉のエキスパートである高見堅志郎先生は、私には畏敬の存在でした。

高見堅志郎先生のこと

芸術や言語表現に強く関心のあった私にとって、高見先生の授業はささやかな緊張感さえ伴う得難い時間で、いつも教室の前方に座りました。最前列でも良かったのでが、神経質そうでシャイにも見える高見先生の授業を教室の空気感も含めて受講しておきたかったのです。たまに、授業開始時刻となったのにまだ雑談を続ける学生がいたりすると、先生は注意することなくただ黙って待っておられました。しばらくすれば当の学生側が気づいて雑談は止み、それもイントロダクションとなって雑音の似合わない高見先生ならでの授業が始まるのでした。

学生時代に目にした高見先生の評論文章の中に「そぐわない気持ちしきりなのである。」との表現を見つけたことがあります。その否定的評価の言い回しが気に入って後日、研究室での雑談で私の小話をその言葉で締めて、「〜ってのが高見先生の言い方。」の補足コメントで仲間の笑いを誘いました。

卒業後数年して、私がライターとして美術展紹介などもやっていることを高見先生に伝えると、当時都内や地方美術館で展覧会が開かれていたポール・デルボーの資料を送ってくださったので、それを参考に展覧会紹介の新聞解説記事を書き、掲載紙面のコピーを先生にお送りしたこともありました。

さらに数年後、私が都内で仕事を続けていることを高見先生が偶然お知りになり、そのしばらく後に生デから非常勤講師の依頼話が届きました。お声掛けいただくまでの経緯は存じませんが、高見先生のお口添えがあったことは間違いないと思っています。

高見先生が逝去されて 20年程経った頃に、仕事で宇都宮を訪れる機会があったので打ち合わせの前に宇都宮美術館を訪ねました。起伏ある森の中に佇む美術館は、エントランスから広大な空間が奢られ展示室も広く、森からの採光もシンプルに配慮されて穏やかな魅力を湛えた場所に愛着が持てました。特別なイベントが開かれているわけでない平日の午後だったのに、館内のレストランでは思いがけず多くの人々が穏やかに談話していました。ああこの美術館の初代館長が高見先生だったならまさにふさわしかったなぁと感じたものです。

生デから

学生時代の私は、渋谷 NHKでガードマンのアルバイトもやっていました。深夜に敷地内侵入した不審者対応も体験しましたし、本社スタジオ見学コースや NHKホール周辺の巡回では TVスターもよく目にしました。ある日の本社屋食堂でキャンディーズの3人と同時に昼食を摂れたこと(10m以上は離れていましたが)は嬉しい思い出です。

また、専攻科時代にカメラマン助手のバイトを体験して、メディアとかイベントの現場にも少し触れることができて、結局そのつながりで、原宿の編集プロダクションを紹介してもらいました。入社試験はそこの社長と1対1の面談。かつては総合雑誌『改造』の編集長も務めた老社長と、表参道の静かな喫茶店で1時間以上話して「では来週から来てくれ」と告げられました。

当時は企業 PR誌の出版が盛んで、その小さな編集プロダクションが作っていた大手企業の季刊 PR誌は国内最優秀の評価を受けていたことも入社してから知りました。また、大手の出版社が発行する多様な単行本の編集制作も請け負ったりしていて、それらがごく少数のスタッフで企画制作されていたのです。まだ活版印刷が主流だった当時に、実績ある先輩社員から、原稿整理や版下指定、制作進行管理などの編集業務全般を基本からマンツーマンで指導してもらえたのは幸運なことでした。私は編集プロダクションの新人スタッフとして季刊 PR誌の編集作業に参加しつつ、大手企業の社内報の編集制作を担当したり、各種単行本の編集・レイアウト作業なども手掛けました。

現場を知らなかった学生の頃は「編集」と「デザイン」はまったく別の仕事とイメージしていましたが、実際の現場に入ると、レイアウト作業は周知のデザインそのものでしたし、企画・提案から原稿依頼・制作、進行管理など、編集作業のすべての工程が、あとから思い返せばやはり「デザイン」だったことに気づきます。「エディトリアルデザイン」という言葉はだいぶあとから知りました。

5年後に編集プロダクションを退社した私は、コピーライターの個人事務所を開いてから、エディター、プランナー、デザイナー(エディトリアル・グラフィック・WEB等)、ビデオグラファーなど多様な仕事を請け負っていきました。でもそれは制作分野を変えることではなくて、「デザイン」の中で経験を拡張することでした。当時使われ始めた「クリエイター」という言葉は、「創造者」と大仰な訳に結びついて好きではなかったのですが、この言葉が世間に周知されていくなかで、制作領域を広げていた私も自己紹介等でやがて使うようになっていました。漠然と広範なイメージの語感が自分の領域展開にマッチしているかなと感じたのです。今では、さらに制作対応の多様さを伝えるために「マルチクリエイター」と名乗ったり、自らの覚悟として「生涯プロクリエイター」と掲げたりもしています。

(ちなみにその「生涯」のスケールは 160歳頃までのイメージ。実際には 80歳まで元気で働けたならありがたいのですが、そんな現実的な限界を設けてそこに収まって高齢者を生きるよりも、終点をムチャな彼方に置いて、高校生な気分で溌剌と生きていければと思っています)

◉卒業後の編集者時代

クリエイターの道具

話は変わりますが、もともと科学好きな子供だった私は、コンピュータが世間に広まるだいぶ前から、今日のコンピュータ社会につながるビジョンは持っていました。きっかけは、1968年に日本でも公開された「2001年宇宙の旅」という映画でした。宇宙飛行船に搭載され任務遂行を管理する AIコンピュータが裏の任務を果たすために乗組員を殺害していくストーリーが印象的で、そのコンピュータの名前を今も覚えています。

コンピュータの可能性に興味を抱いてだいぶ過ぎ、やがてフリーランスで仕事するようにとなった頃にようやくパーソナルコンピュータが徐々にデザイン業務の分野でも使われ始めました(やがて 2020年代前半頃には、私の仕事でも生成 AIを使うことが増えてきてその品質に毎回感心しますが、ではクリエイターとしての存在価値は何なのかが同時に問われている時代だとも感じています)。

フリーランスとなった 1980年代初頭には、登場したばかりのポケットコンピュータを購入して、コンピュータによる未来を空想していました。両手で愛でるそれは、まだ初歩的な Basicプログラムしか動かせないオモチャでしたが、近い将来にコンピュータがデザインの各方面でも活用されていくだろうことは見えていました。だから 80年代前半頃には登場して間もないMacを導入しようとしたのですが、リース会社の担当から「コピーライター業務に使うならワープロ専用機でないと」と説得されてしまったのでした。

しかしまもなく、Adobe Illustratorでページ記述言語によるベジエ曲線が自在に、無限に滑らかな表現を実現したことを知ったりして、これからのデザイン業務で必要なのはワープロ専用機などではなくて多様な可能性を持つコンピュータだと再認識していました。先のワープロリース期間も終わる 1989年に生デ講師の話が届き、Mac導入のための情報を得ようと本屋でコンピュータ雑誌を手に取ると、目に入ったのがスティーブ・ジョブスの作った NeXTコンピュータの小さな記事でした。掲載された本体システムとモニター画面の小さなモノクロ写真を眼前に、私は店内でしばらく立ち尽くしてしまいました。大層高額なコンピュータシステムは、外見も画面の OS(NeXTSTEP)のインターフェースも次代を明示しつつ高貴なほどシンプルで異次元の佇まいでした。問い合わせると、幸運にも学校関係者割引があり導かれるように導入できました。国内唯一の販売会社であったキヤノンの販売担当者によると、このかなり特別なコンピュータを個人購入したのは私が国内で 10人目以内とのこと。そんなコンピュータをあまり迷わず購入できた自分を今でも誉めています。

NeXTの国内ユーザーグループはだいぶハイエンドな感じで、複数のアプリメーカーからはやがて世間を席巻するいくつかのアプリケーションのベータ版が提供されることもありました。そしてこのコンピュータがすぐに私のクリエイティブ系の仕事領域を広げて行ってくれました。ちなみに、たしか酒井道夫先生もジョブスや NeXTに関心をお持ちだったようで、まもなく生デ研究室にも1セット入りましたね。

1990年代中頃まではこの NeXTで複数のアプリケーションを使って私は、エディトリアルデザイン、グラフィクデザイン、ビデオクリエイトなど多様な分野の活動を進めました。やがてジョブスがアップルに復活して次代を先導する新しい Macも出てきたのでそちらに乗り換えましたが、NeXTのセンスは現在の MacOSのベースであり続けています。

マルチクリエイターへの覚悟の象徴である NeXTマシンは、今も私の仕事部屋のラック最上部に鎮座しています。

再び生デへ

生デを卒業して 10年ほど経ってから私は再び生デとつながりました。非常勤講師として招かれて生デ終焉時までの 10年間にわたって「デザイン論演習/デザイン論」の必修授業を担当させてもらったのでした。

研究室は、学生時代と異なり 8号館に移っていて7号館時代より何倍も広くなっていました。学生ではなく講師の立場で研究室を使う側になると広いことは快適でしたが、様変わりした研究室でも生デならではの魅力的な空気感は以前と同様でした。 なので今では、7号館時代と 8号館時代の研究室の記憶は私の中で混然となっています。

生デ講師の依頼があった時に、まず考えたのはどのように学生を指導すべきかということでした。現場で仕事を続ける現役クリエイターとして、将来のクリエイターを育むことを念頭に「デザイン論演習」指導の基本スタイルを検討しました。かつての自身の生デ学生時代も振り返りつつ実際の学生たちを見ていくうちに、彼らに何が必要で私に何ができるかの基本ラインがだいぶ見えていきました。

担当授業のこと

私が担当した授業では、その都度の課題テーマについて学生はまず個人で考えてから、時にチームを組んでディスカッションし、可能なら現場を調べ、得られた情報をもとにまたディスカションし、伝えるべき対象へ向けて効果的なかたちに整理してプレゼンテーションする。それが「デザイン論演習」として望ましいだろう、との思いで実践していました。

また、生デでの私の授業のルールに「遅刻禁止」がありました。卒業すればすぐに社会人となって仕事を始める学生たちに向けて「授業開始時刻から 15分以上遅れた学生は教室に入ることを禁止する」と明言していました。必修授業だったので生徒側にも相応の緊張感はあったでしょう。「約束の時刻に遅れてはならない」ことの大切さはやがて社会で体験するでしょうから、その予行演習として敢えて厳しいルールを示してみました。

10年間の生デ講師の後、ムサビの通信教育課程やデザイン情報学科の授業を計 10年以上担当したり、他大学の造形芸術学部でもクリエイティブ系授業も 10年弱受け持ちましたが、それらに共通する指導スタイルのポイントはやはり、「ディスカッション・フィールドワーク・プレゼンテーション」でした。たとえば、デザイン情報学科で任された「都市の解剖」という科目名の授業でもこれらの共通ポイントを踏まえつつ、ことに都市を解剖的に捉えるためにはフィールドワークの取り組みは不可欠な優先事項でした。そこに、前のめりなフィールドワーカーのスタンスがあれば、より多くを発見しより深く考える足掛かりとなり、より興味を引くプレゼンテーションにつながるでしょう。そんな学生自身の成長にも直結するキーワードに思い浮かんだのが、長谷川尭先生の『姿態都市身体建築(したいまちみたいたてもの)』という言葉(記事表題)。自発的な期待感も胸にフィールドワークすれば深く見えてくるものもあるし、まさに「都市の解剖」にふさわしいスタンスと思え、フィールドワークの準備をする学生達にこの言葉をかけました。

子とも共に育つ

私には、生デの講師依頼をいただいた頃に誕生した息子がいて、3歳の頃からは父子 2人で生活していました。保育園が感染症対応で休園となった時には、酒井先生の許可いただいて学校に連れて行き研究室でお世話になったことがありましたし、清里合宿に同行させたこともありました。

片親の初めての子育てに戸惑いは大きかったものの、学生指導で得た経験が活かせました。2人の食卓テーブルでは適度の会話を心がけ、ときに反論待ちのディスカッションも仕掛けていました。そんなメンドーな父親を持ったせいか息子は、自発的に考え行動し積極的にコミュニケーションできる人間に育ったようです。やがて彼は音大を卒業して渡仏し、その数年後からはプロ奏者としてパリを中心に活動しています。

一方、フリーランスクリエイターの私は「できないこと」のあるのがイヤなので、未経験分野でも対応の可能性を感じれば積極的に案件を引き受けていました。しかし最初から諦めていたのが音楽系の分野でした。元々音楽の才能はないと自覚しているので、ムービーの BGM等では外注したり有料音源を使ったりしていました。

自分の能力は及ばないと自覚していたその表現分野で、今は息子がプロ活動していることを不思議な感覚で楽しんでいます。彼はまた、パリ周辺の複数の音楽学校で学生指導もしていて、そこは私との共通点になっています。彼に「教えることは学ぶことであり、教員ならではの観点も得られる」と話したら、「たしかにそれは感じるよ。体験すると分かるね」と答えていました。

振り返ってみると、ひとり親で子供を育て上げられたことを自ら褒めたいと思いますし、それをありがたい体験と感じています。

(ちなみに、小さい頃の彼は、生デの会サイトのトップぺージに並ぶ写真に写っていたりします)

纏め

「デザイン」を、高校生時代は表層の体裁くらいに捉えていた私は、生デに入ってまもなくその本質的な意味に気づいていきました。当時の私が惹かれていた哲学・芸術的視点とか詩的表現も生デでは両手を広げて受け入れてもらえつつ、それらも包含するデザイン観を学ぶことができました。また卒業直後の数年間に編集者の経験を積めたことは、その後クリエイター活動を多様に展開してゆくための良い基盤となりました。生デ最後の 10年間を講師として関われたことも、私の人生を活性する資産となりました。

生デへの並ならぬ思いを持つ卒業生や関係者は他にも大勢いらっしゃることが、この「生デの会」サイトの存在からも伝わってきます。終了して四半世紀経つのに、今もこのようにゆったりと情報交換される場が息づいていることも相応しく感じています。

生デと関わってきた私は今後も「生涯プロクリエイター」の志を持っていきます。

★★関連情報

観堂の作品紹介サイト

http://cando.csplan.co.jp/index.html

生デでご厄介になったこともある息子の紹介サイト

https://www.myuisic.com/