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2018年『生デの会』設立総会 詳報

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 2018年10月20日(土)、武蔵野美術大学吉祥寺校2号館にて『生デの会』設立総会が催されました。午後2時から始まった総会には約60名が出席し、役員選出や活動計画などが満場一致により承認されました。
 その後のトークショーと懇親会には卒業生110名が参加。恩師や友人と旧交を温めるひとときを過ごしました。
 トークショーには専任の先生三名にご登壇願いました。泉 修二先生(90歳)、網戸通夫先生(82歳)、酒井道夫先生(79歳)。お元気な姿が眩しく見えました。
 先生方の持ち時間は10分ずつと短いのですが、とても興味深い話をうかがえました。

●生デの草創期

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 まずは泉先生。
 「安倍総理が再選されたとき座っていた椅子は、52年前に私がデザインしました」。会場からどよめきが起こります。製作された椅子は二脚、うち一脚はTVニュースで流すための撮影専用、見せるための椅子です。
 「当時のデザインに求められていたのは、特別な、ステータスな、階級を象徴する、売るためのデザインでした」。生デがスタートした翌年のことです。
 流行をつくり売るためのデザインは、その頃のデパートの体質だったといいます。裏返せば当時のデパートは、これからの消費社会を牽引する主役でした。
 「生デが始まって3年目に、日本のGNP(国民総生産)はアメリカに次いで世界第2位になります。その引き換えに、環境汚染が始まったんです」と振り返ります。
 「生デの創立時には阿部公正先生(1921~2004)が居られました。阿部先生は〈デパートにあっては慎重であってほしい〉と言われていましたね」。
 阿部公正先生を知るのは、今となっては泉先生と向井周太郎先生(基礎デザイン学科、名誉教授)だけかもしれません。三人は新宿の酒場でデザイン談義を交わすこと、たびたびでした。ときには始発まで、熱い時代です。
 「生デの教育理念は、デザインに対して豊富な知識を持つ消費者を育てるというものです。でも阿部先生は、学際的にと、幅広く立体的に学問をやりたいと言っておられました」。この思想は、その後の生デのあり方にも受け継がれているようです。
 しかしまもなく学園紛争が始まります。その嵐に巻き込まれて、阿部先生以下20人の教授陣は一斉に退職。生デは崩壊しました。

【余談ですが、高見堅志郎先生(1933〜1996)から聞いた学園紛争の話。教授陣は毎日のように講義室で学生たちと対峙し、「おまえらは専門馬鹿じゃなくて、馬鹿専門だー」と意味不明の罵倒を浴びせられて辛かったそうです。中庭広場に敷かれていた赤煉瓦はすべて剥がされ、投擲に使われました。いまアスファルト敷きになっているのは、投擲できないようにとの配慮だったそうです】

●崩壊後の生デ第二期

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 「生デがふっとんだらしい。でも学生は残っている、どうしようかと」。当時、建築雑誌(『建築文化』)の編集者だった酒井道夫先生に、高見先生と橋本梁司先生(社会学)からオファーが来ました。酒井先生は、誰も居ない生デに放り込まれます。
 「研究室は封鎖されていて、学生名簿は無く、カリキュラムも分からない。それでも、なんとか在校生を卒業させなくちゃ、と。そんな状況にもかかわらず、なぜか生デの新入生が募集されたんです。専任教授を集める一方、専攻科には田村義也(1923〜2003)先生の協力を得て、なんとか繋いでいったんです」。その後、芳武茂介先生(1909〜1993)が主任教授として来られて、生デは一段落します。
 ちなみに、出版社をやめて生デの教授になった酒井先生の給料は、10万円から8万円に減りました。それでも、不眠不休の出版社勤めに見切りを付ける良い機会だったようです。

【酒井先生は当時、勤務先の出版社に「僕、結婚するので会社を辞めます」と言って退社したそうです。男性初の寿退社に、出版社はさぞ驚いたことでしょう】

●「ムサ美」ではなく「ムサシノ」。

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 「この講義室は思い出深い場所です。僕は56年前に、この吉祥寺校で卒業証書を授与されました」と網戸通夫先生。武蔵野美術大学・工業デザイン科を卒業し企業に勤めて13年後、生デの教授にとオファーを受けました。すでに、工デIDの同級生・横溝健志先生(工芸工業デザイン学科、名誉教授)が勤めているので様子を聞いたところ、「生デの先生はみんな良い人で、変な人は居ません。高見先生は面白い人ですよ」とのことでした。
 「生デに来て良かったことは、専門領域の違う先生方と広く交流できたこと。また、いろいろな学生と出会えたことです」。明るく、開けた、自由な空気のある生デは、さまざまな人々が集う場でした。
 「権威主義とは最も遠いところにある、それが生デでした。でもね、いまみなさんが言う〈ムサ美〉という呼び名には違和感があります。当時は〈ムサシノ〉と呼んでいたんです」。網戸先生が三年生のとき、鷹の台の校舎はできたばかり。武蔵野美術大学の本拠地は、武蔵野にある吉祥寺校舎でした。
 「生デは、とても居心地の良い研究室でした。でも馴れ合いではなく、根っこには緊張感がありましたね。開けた自由な学科であったことを誇りに思うし、これを繋いで欲しいと思います」。
 ところで、「あてにするな、網戸先生の大丈夫」というキャッチフレーズ(?)を知る卒業生も多いでしょう。網戸先生が生デに来て6〜7年経った頃、清里合宿で学生たちに言われたそうです。何があったのでしょう……。でも、網戸先生の「大丈夫」に勇気をもらった学生も多いはずです。

●参列下さった先生方
生デと長くお付き合いくださった先生方のお言葉を紹介します。

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 向井周太郎先生(86歳):「阿部先生と泉先生と朝まで新宿でデザイン談義、ほんとに困りました」。向井先生はお酒を召し上がりません。酒豪の阿部先生に付き合って耐えていました。お店のママさんが、よく頑張ったわねと褒めてくれたそうです。
 「生デというものが成立したことは希であり、武蔵野美術大学にとって素晴らしいことです、誇りに思えます」。

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 横溝健志先生(80歳):「工デの専任でしたが、僕にとって生デは意味深いんです。生デに行くと、いろんな領域の先生方が同じテーブルを囲んで和気あいあいと話しています。また生デの研究室は〈通路〉でもありました。学生たちが、あっちの扉から入って来て、こっちの扉に抜けて行く。ときどき通りすがりの学生に声を掛けてテーブルに付かせ、いろいろな話をする。その椅子はマルセル・ブロイヤーの〈まがい物〉で、酒井先生がどこかから捜してきた安物です。この感じが、とても良かった。そんなもんだよね、と。デザインの幅が広がったというか、生デに教えてもらったことがたくさんありました」。
 横溝先生と高見先生は当時、同じ住宅団地(けやき台)に住んでいました。なので、真夜中に高見先生から「あの本を貸してください」と電話を受けることがたびたびありました。高見先生は、横溝先生の本棚の何列目の何段目にどんな本があるのか熟知しており、的確に指定します。徒歩数分の距離なので、真夜中でも本を貸してあげたそうです。素敵に難儀な関係ですね……。

 その後は、大西慶憲先生、都丸昌男先生、矢作勝美先生、佐藤淳一先生、佐々木郁子先生、中尾早苗先生、岡本直枝先生からもお言葉をいただきました。

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 大西先生は石膏の回転体の実習を担当しておられましたが、専門は漆芸です。主宰する工房では弟子たちと共に、いまも日本古来の乾漆技法を極めておられます。
 今回、先生方から伺った生デ草創期の話は、ほんの端緒です。その後あれこれの話が聞けるのを、次回の楽しみにしたいと思います。

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 懇親会は和やかに始まりました。友人との再会、先生方との再会を喜び、懐かしい話は絶えません。会も終わりに近づいて、全員集合の撮影。最前列に並ぶ先生方を取り囲む卒業生たち。バックスクリーンには、在りし日の高見先生が映写されました。

このページでは、同窓の皆様や先生方の近況や、 武蔵美や校友会のイベントなど様々な話題をお知らせをする予定です。 つきましては今後皆様方からの情報のご提供も募って参ります。 その準備が整い次第、改めてご案内いたします。


(C)武蔵野美術大学 校友会 生デの会 2018